なぜ脱原発派から原発推進派になったのか、と聞かれることがある。
僕は、決して原発推進派ではない。
原発は危ない、と30数年前から言い続けてきた。
1976年に『原子力戦争』という本を出した。
原発は危険な代物であり、その建設にも大いに問題ありだと書いた。
その後、『ドキュメント 東京電力企画室』では、日本はどのようにして
原子力発電に踏み切り、東電、通産官僚、政治家がどう関わったかを書いている。
そんな僕から見ても、科学的・技術的な議論が行われないままに、
まるでファッションのように脱原発の潮流に乗るのはどうかと思う。
放射能は危険に決まっている。
しかし、科学技術は常に危険をともなうものである。
いかにそのリスクを抑えて使いこなすかが文明というものなのだ。
福島第一原発の事故は大きな失敗である。
なぜ事故が起きたのか、どこに問題があったのかを究明し、
そのうえで事故の再発を防ぐにはどうすればよいかを考える。
これが私たちの歩んできた文明の歴史ではないか。
ところが、ただちに「原発は危険だからやめよう」ではその歴史に反する。
私たちは原発について十分に議論を重ねてきたのだろうか。
何の検証も議論も行われないまま脱原発に突き進むのは、
ある意味では恐いことである。
僕には、それは60年安保闘争と似ているように思える。
安保闘争に参加した人たちは、条約の中身などほとんど読んだことがなかった。
きちんと中身を知らず、ただ反対していただけである。
科学的・技術的な議論が行われない脱原発の動きは、
この安保闘争とよく似ていると、僕には感じられてならない。
そもそも私たち日本人は、今度の事故が起きるまで
原発にほとんど関心を持っていなかった。
原発に関心を持っている人も、脱原発派と原発推進派に分かれ、
互いにぶつけ合いの議論をしてこなかった。
仲間同士で話し合っていただけである。
ようやく最近になってTwitter上で、脱原発派と推進派とが
ガンガン議論する状況が見られるようになってきた。
本来ならメディアで徹底的に議論すべきことである。
しかし新聞、テレビでは、ぶつけ合いの議論はまだ見られない。
それから、もうひとつ。
風評被害がひど過ぎるので脱原発だけを言ってもだめだ、と僕は言いたい。
多くの人が福島で放射能がどんどん増えていると思っているようだが、
3月以来、大気中の放射能濃度は下がっている。
問題は、地上に落ちた放射性物質がそのまま残っていることである。
そこで、福島の農家の方々は、地表の土を削っている。
前回も書いたが、このような努力にもかかわらず、福島の農産物は危険、
と風評が高まっているので困ると、農家の人たちも訴えている。
海外では、日本全体が危ない、と思っている人も大勢いる。
これも困ったものだ。
そのためにも、ぶつけ合いの議論が必要なのである。
自分たちで情報を持ち寄り、正しい情報はどれか、何がどこまで安全なのかを
見極め、アピールしていかなければならない、と僕は思うのである。