明治維新以降、日本は上へ上へとのぼり、「坂の上の雲」をつかもうとしてきた。昭和の敗戦の後も必死に働いて、平和で豊かな国を目指してきた。いま、その夢はほぼ実現したといっていいだろう。「坂の上の雲」を突き抜けてしまったのだ。
もちろん問題がないわけではない。それどころか現在、問題は多様化し、複雑に絡み合っている。「雲」を通過したあとだからこその難しさがある。
これまでは、豊かな社会を夢見て、それが現実になると信じて、がむしゃらに働けばよかった。日本国民みんなが、ひとつの「物語」を持っていたのだ。
では、その夢が実現したら、どうなるのか。人間がもっともパワーを発揮できるのは、夢が叶うと信じて努力しているときだ。そして、こうしているあいだが、人は一番幸せなのではないかと僕は思う。だからこそ、いま、国民すべてが持つことのできる新たな「物語」が必要なのである。
はたして目指すべき夢を描ける者はいるのだろうか。「物語」には「哲学」が必要だ。「哲学」が大事な時代になっているのだと僕は思う。人間は何のために、そして、いかに生きるべきか。このような時代だからこそ、真剣に考えることが必要なのではないか。
ソクラテス、カント、ショーペンハウエル、ハイデガー、ヘーゲル……。古代から、なみいる思想家たちが、人間の生き方について考え抜いてきた。ところが、せっかくの彼らの思想を、現代の哲学者(研究者)は、わかりやすい言葉で語ってくれない。このことに僕は、おおいに不満を持っている。
僕は何冊も哲学書を読んだ。真剣に「哲学」を学ぼうとしたのだ。しかし、どの哲学書も難解な思想を、さらに難解な言葉で解説しているのである。実にわかりにくいのだ。理解できないのは、僕の頭が悪いからかもしれない。けれども、なるべく多くの一般読者にわかるように語りかけるのが、この時代に生きている哲学者や研究者の役目ではないだろうか。「難解な話をするのがえらい」「研究者仲間でわかればいい」と考えているのではないかとすら思えてしまう。
そんな僕の不満を、若手評論家で、哲学者である東浩紀さんにぶつけてみた。東さんは、こう言った。
「古代の哲学者がどんな人間で、どんな背景があったから、その思想が生まれたのか。こうしたところから考え、語らなければ、その思想をわかりやすく説明できるわけがない。これをするには、実は大変な人間力が必要なんです。ところが、そういう社会性を備えた人は、たいてい大学の哲学科に来ない。来たとしても、哲学の専門家にはならないんですよ」
彼の答えに対して、僕はなるほどと思った。
しかし、それでもなお僕はあきらめられない。いまも、多くの哲学者に会いに行き、話を聞き続けている。お会いした哲学者のなかには、実にわかりやすく語ってくれる人、つまり、人間力を持っている人もいた。こんな哲学者が、これからもっともっと増えてほしいと僕は願ってやまない。
さらに、東さんのような若い論客にどんどん発信してもらい、哲学を軽やかに学ぶ若者が増えていってほしい。それが現在の日本、そして未来の日本にとって必要なことだと僕は思う。
私事ですが、私の子が大学入試で哲学課を目指しています。
私も学生時代は哲学の授業はすきでした。理系でしたのでそちらのほうには進みませんでしたが・・
もう少し哲学とか宗教学とかが一般化、大衆化して普通に簡便な言葉で語られるようになる事。本当に必要なことだと思います。
わが子にも田原さんのこのブログを読ませようと思います。
こんにちは。
「どう生きるべきか」。その悩みは、豊かな時代も貧しい時代も、多くの人が抱きますね。
田原さんも、きっと、そうなのでしょう。
が、問うべき相手は、なにも哲学者に限らないのでは。
町場のおっちゃんやおばちゃんこそ、たくましい哲学を持っていると思います。
旋盤工で作家の、小関智弘さんの本には、そんな彼らの粋な言葉が詰まっています。
また、農民作家の山下惣一さんの言葉も力強い。
ぼくらは、学者、社長、会長、高級官僚……と聞くと、エラいと思い、
街工場の社員、工員、主婦、百姓……と聞くとエラくないと即断しがち。
ですが、当たり前のことですが、前者にもバカはいるし、後者にも哲学者はいます。
鉱脈は、なにも学者に限らない。
ぼくは、そう思いますね。
凄く大切な問いかけだと思います。
日本の場合、
追いつこうとしていた時代、(明治から昭和初期)
競っていた時代、(昭和中期~平成元年年位)
成熟時代(~現在)
成熟社会と言われ始めてから、
国民所得は右肩下がりのままの様な気もします。
国民が持つ小さな夢もまた、弱々しくなっているのではないでしょうか?
以前コメントさせていただきました
田原さん榊原英資・竹中平蔵にズバリ聞いた2へのコメントは、>
http://ameblo.jp/phrasemonsters/entry-11402609740.html
経済が日本の遍く人にまで、
良い意味で行きわたる事がまず基本だと思います。
・・・
日本全体とか世界規模から考えれば小さな事かもしれませんけれど、
人は生活にゆとりが欲しいし何時でも小さな夢を持っていると思います。
(家族・家・車・・・・色んな欲しい物)
「貧すれば鈍する」ともいいますが、
小さな夢の集合体が、集まって日本という国の動きを
活発にしたり弱めたりするような気もします。
団塊の世代の人は今定年を迎えて久しいですけれど、
「何とかかんとか、やってこられた」と良く聞きます。
段階以前の世代だって、「何とかかんとか、やってこられた」
という人が多いのではないでしょうか?
心の割り算 年収500万円以下は普通以下?
http://ameblo.jp/phrasemonsters/entry-10371320662.html
・・・
所が現在は、「割りに合わない」そういうフレーズもたまに聞きます。
昔の人は全般的に、そんなこと言っている暇さえなかったのではないでしょうか?
夢というより自分の生活の維持で、頑張ってもなぁ~という若者も増えているような…
だから最近頻発しているツイッターでのおバカ写真だ増えているのかなとも感じます。
今居るその職場を大切に思うならそんなことし無いのが普通でしょうし、
周りにだって「やめろという」人が沢山いると思うのです。
「仕事に誇りを持て!」と言うフレーズ 「止めろ」の一言>
http://ameblo.jp/phrasemonsters/entry-11596311936.html
・・・
日本の新しい夢というお題に、
国民の年収という話はそぐわないかもしれませんけれど、
頑張ったなりに、少しづつでも伸びているという実感に下内されてこそ、
小さな夢をかなえようと多くの人が、「割りに合わない」とか言ってないで、
もっとよりよくしたく、がむしゃらに頑張るような気もします。
とりとめのないコメントになってしまいました。申し訳ありません。
ただ言いたかったことは国民一人一人が持つ小さな夢の実現、
その集合体が、未来で過去を振り返った時、物語になっていたり、
哲学というものが有ったといわれる様な気がしたので、綴ってみました。
そう考えると、物語というものは、縷々作られていき、
後から物語として語られるものなのかなとも思いました。
先にこういう物語が有るというものでもない様な気もしましたけれど、
そういう目標や夢というものが先に有っても良いですね。