映画『ドローン・オブ・ウォー』を観た。「ドローン」とは遠隔操作できる無人機のことだ。荷物の運搬や災害時の調査など、さまざまな場面での活用が期待される。一方、首相官邸の屋上に落下するなど、安全面での問題も取り沙汰されている。
いま、「ドローン」がもっとも活躍している場所、それは戦場である。9.11以後、アメリカは戦争にドローンを使い始めた。イラクやアフガニスタンの戦場をドローンが飛んでいるのだ。『ドローン・オブ・ウォー』は、その実態を描いた映画である。
主人公はアメリカ空軍の少佐だ。パイロット出身の優秀な軍人である。彼の職場はアメリカ国内の基地だ。そこで、モニターを見ながら、ドローンを操縦し、敵を撃つ。それが彼の仕事なのだ。エアコンの効いた快適なオペレーションルームで、海を越えた遥か遠くの土地の上空を飛ぶドローンを操作し、地上の敵を正確に攻撃することができるのだ。
当然、ドローンが撃ち返されても、操縦している人間にまったく被害はない。最高に「安全な戦争」といえよう。しかし、テロリストを狙っていても、子どもを含む民間人が巻き添えになることもある。そんなとき、主人公の心は痛む。ところが、実際に人が死ぬのは遠い異国で、しかもモニター越しだから、どこか現実感がないのだ。
彼は、何人もの人を殺して、任務を終えると、ラスベガス郊外の自宅へ帰る。通勤途中には、平和そのもののきらびやかな街がある。家に帰ると、愛する妻と子どもが彼を迎える。仕事の内容を除けば生活は平穏そのもの。心休まるマイホームと快適な職場とのあいだを往復するのが彼の日常なのだ。そのギャップに、彼の心は堪えかねて、次第に蝕まれていく……。そういうストーリーである。
無人戦闘機の技術が、ここまで進んでいるという現実に、まず、僕は衝撃を受けた。もちろん、人と人が直接ぶつかって殺し合う戦争がよいというわけではない。戦争なんてあってはならないことだ。しかし、こうしてゲームのように、自分の身は絶対安全な場に置きながら、人を殺すという戦争が、あっていいのだろうか。戦争のやり方が、このように変質すると、いったい誰が想像しただろうか。
技術の進歩は、もちろんよいことだ。ただ、人間は欲張りなもので、「もうそろそろこのへんで」と、止めることは難しいのである。その向上心ゆえに、僕たちの文明はどんどん進歩してきた。ただ、幸せにつながる技術もたくさんあるけれど、「そこまで必要なのか」という技術も多いのではないか。そう考えてしまうことがある。
以前、ソフトバンクの孫正義さんにこんな話を聞いたことがある。「近い将来、コンピュータチップは人間の脳の容量を超える。それを腕時計のように身につければ、人のウソや隠した考えを、読み取ることができるようになるだろう」興味深い話ではある。だが、果たしてそんな世界は人間を幸せにするのだろうか。
人は知らない方がいいことも、たくさんある。相手が考えていることをすべて読めるようになってしまったら、『ドローン・オブ・ウォー』の主人公のように、心が蝕まれてしまうに違いない。「技術的には可能なことでも、それを実現させることが、人類にとって幸せか」という基準が、これからの技術開発には、必要になってくるのかもしれない。この映画は僕に、こんなことを考えるきっかけを与えてくれた。
7、80年前のコミンテルンの情報工作やWGIPから未だに抜け出せていない人が未来の戦争技術を心配するのもおかしな話しだ。
誠に尤もです。
科学は両刃の剣であり、結局どう使うかは人間である。
それが、日常生活や心理の奥深くまで、しかもグローバルに入り込もうとしている。
こういった問題は、国内的な議論は勿論、国際的に議論を進めるべきである。
「ロシアで世界最先端の「ドローン軍」誕生?」(NEWSWEEK日本版)
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/05/post-3665_1.php
には、
『数百機のドローン部隊が登場することになれば、ロシア軍は一気に世界最先端の軍隊に躍り出るかもしれない』
とあり、アメリカだけでなく世界的に拡散しつつある。
また、
「軍事力ひけらかす中国パレード」(WSJ紙)を「覇権唱えず」(朝日)と報道するのはひどすぎないか」(BLOGOS)
には、
『軍事パレードで公開された無人航空機』
も写っている。また、“抗日”とは到底言えないような長距離ミサイルも登場しているし、それには、『核弾頭が搭載可能』なのである。
このようなパレードに国連事務総長が出席したのは、核軍縮をはじめ、将来的な“ドローン軍縮”も見据えた大局的、長期的軍縮の見地に立たなければならない国連の使命に反した重大な誤りである。
日本政府は、このことに対して遺憾の意を表明したが、ただ単に中立性などを訴えるだけでよかったのかは疑問である。それよりも、軍縮を推進する立場であることの自覚を促すことを主眼に訴えるべきではなかっただろうか。